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shirokuma180cm96kの体重グラフ shirokuma180cm96kの体脂肪率
  96.2kgスタート    28.5%スタート
スマート化計画
2008年8月27日 96.2kgより開始
2008年9月23日現在 88.4kg(-7.8kg)

2008年9月2日火曜日

飽食

飽食を環境に生きる僕たちの世代は飢餓にはめっぽう弱いはずである。空腹を知っている年配の方々からすれば、僕たちの世代はどんなふうに映っているのだろうか。

人間の脳は進化の中で、ネガティブな思考をその進化の為に残してきた。不安や恐れといった感情を抱く事がそうである。不安や恐れといった思考を持つ事で、不安や恐れの対象となる出来事から身を守るためである。そういったネガティブな思考を持つ事により、その出来事からの対処法、その出来事自体が起こる事を防ぎ、生命を脅かすものから自然な距離を保っている。そんなふうに不安や恐れという思考は、そのまま「生きる」という事につながっている。そして不安や恐れといった思考は苦しいものだが、その思考が強い時ほど、生きるということと直結しているということになる。

人間はどんな時に不安や恐れを抱くのだろうか?

身の安全が脅かされる時、例えば交通事故の危険性を感じる時や出産をひかえている時など。自分が否定されそうな時、例えばライバルの出現や彼女とうまくいかなかったときなど。などなどと列挙すればきりがなく、まさに四苦八苦と苦しいばかりである。空腹と言うのもそれに当てはまるだろうと思う。

不安や恐れを抱く対象の反対の事物が生きる事とイコールであるなら、その遠ざけた出来事と反対の位置にある状態が「生きる」ということになる。上記の例で言うのなら、安全でいる事、自分が認められている事、子孫を残す役割を担っている事、満腹でいる事、・・・というふうになる。そんなふうに満ちた状態を確保する事、ネガティブな状態を常に解消していく事の連続で僕たちは生きている。人間は、一方で欠けた状態を完全に否定しながら、一方ではその欠けた状態を常に保持したがっているとも言える。常に正反対の思考を持ちながら存在しているということは、生と死の二元に似ている。やはり死というものは自分の外側にあるものではなく常に内側にあるということなのだろうか。

人間というものは、常にネガティブな部分を持っているのだろうか。仕事で成功したいとか、お金持ちになりたいという望みは少なからず、誰しも持っているものだと思う。その事をすでに得た人はまた違う望みを持っているはずである。どこかが満たされれば、どこかが欠けるという状態を脱して、完全に満たされた状態を誰もが望んでいると思う。しかし人類は本当に満たされた状態に向かえないのではないかとも思える。人類がそれを望みながら、そうする事をしない不思議を解明したいものだ。

世界のどこかには飢餓の状態にいる人が大勢いるという現実は忘れないと誓いながら、僕たちは飽食の時代という食べ物に囲まれた豊かさを体験している。少なくとも、日本では最大の障害のひとつである空腹をもたらす環境を克服したとも言える。そして、それほど意識があるのかは分からないが、その環境でしかできない経験の喜びをおおいに味わっている。

過去において、空腹の時にはできなかったことを実現できる環境を一旦は手に入れた。一時的なものかもしれないという不安や恐れを抱きながら。そして完全なバランスシステムではないと頭の片隅で確信しながらも。空腹を満たすというエネルギーは過去よりも格段に少なくなっている。そんな飽食の時代という満ちた状態にいる今、空腹というネガティブは何に置き換えられたのだろうか。飽食という環境の中、人間はどこにネガティブのバランスを発見しているのだろうか。

満ちた豊かさの時間に存在するために、ギリギリまでその満ちた状態に生きたいと思うのが人間であるようだ。ニュースや僕を含めた市井の声は、そんな豊かさの中にいて、もうすでに次なる不安や恐れを大きくしていると感じる。そんなふうに人間はギリギリに立つことで、生と死を確認する。ギリギリのところに立った瞬間、長い時間をかけて得た今の現実のありがたみは急速に「当たり前」となり、色があせ始める。

過去には、今日の飽食の環境は素晴らしき理想郷だったんだろうと思う。こんな穏やかさを得る事は本当に難しかったのだろうと思う。不自由なく体が動いてくれて本当に有難いと思う。当たり前の幸せの多さの全てが奇跡的だと思う。長い時間をかけて得たものは未だ不完全であるのかもしれないが、この状況を渇望した過去があったことを想像し、克服した喜びや有難いと感謝する気持ちを再認識したいと思う。

ますます、自分の醜い身体を恥じる午後である。

晴れ

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